走らない宣言をする人
走ることが好きで、SNS等で同じ趣味の人たちとつながっています。
そうしていると、ときどき、ある言葉を目にしてとても落ち込む時があります。
その言葉とは…
「走ることから距離を置く」
「ランニングをやめる」
といった趣旨の言葉。
そりゃあ、その人なりにいろいろな理由があるとは思います。
好きで走っていたのに、それを止めようと決意するのだから。
まあ、「いつも◯時間でゴールできたたのに、今回は△時間かかった。プライドが傷ついた」などという、他人からすればどうでもいいような理由の時が多いですが。
発言主にとっては天地がひっくり返るような出来事ごとなのかもしれませんが。
理由はどうあれ、それを趣味としている僕たちにわざわざそんな宣言することないんじゃないでしょうか。
走る意味を見失い、相談する人
「今、気持ちが弱っている、やめようかと思っているが…」
「満足な結果が残せなかった、自分はもうダメなんだろうか」
といった、相談的なスタンスならまだいいと思います。相談には喜んで乗るでしょう。同じ仲間なんだから。
一生懸命、練習してきたのにダメだった時。どんなに強い人でも弱気になってしまう時ってあると思います。その弱さをさらけ出し、真摯にアドバイスを求める姿は、実は芯の強さのある姿だと思います。
いちばん厄介なのは…
走らなくても友人関係は
やめたいなら勝手にやめればいいと思います。ただ、何も言わず、フェードアウトしていってほしい。
フェードアウトしたからと言って、全人格まで否定しようとは思いません。
走る繋がりはなくなっても、友人関係まで解消したいとは思いません。
「昔は走っていて、もう走らなくなった人」
と頭の中で静かにカテゴライズするだけの話。
声高に宣言する人
厄介なのは、一方的に意思を固めたかのような、「もう走らない」宣言。
もう走ることができない、合理的な理由があるわけではなく、「走れる」けれども「走らない」、ことを声高に宣言してしまう人もいるんです。
そう宣言してしまった以上、カテゴライズは変わってきます。
「走れるのに走らないとわざわざ宣言した人」
すなわち
「自分の中の何かを自分で処理しきれず、周囲を巻き込んじゃった人」
となってしまいます。
そうなると、やはりそんな人たちへ向ける目は変わってきてしまいます。
そんな宣言は芯の弱さの裏返しにしか聞こえません。
それでも、そんな言葉をときどき目にするんです。
「まあ、人それぞれだ。その人の意思を尊重しよう」
と大人な対応をすればいいんだけど、やはり、どうしてもそう簡単に割り切れないものがあります。
そんな言葉を聞きたくない理由
特にマラソンの応援をしていたりしたら、そんな思いを強くします。
今回の村岡ダブルフル、100kmコースにとっては73km地点で僕たちは応援していました。
長い下り坂が3km続き、さすがの剛脚ランナーでさえ音をあげて、前ももへのコールドスプレーを欲しがるような、とてつもない急坂。
畏敬の念で固まるランナー
その初老の男性は、そこに現れました。
ちゃんとゼッケンをつけた、正式なランナーです。
しかし、「杖」をついていました。
トレランポールなどではない、普通の「杖」です。
足がお悪い方が使う「杖」です。
剛脚ランナーでさえうまく走れないその坂を、その初老男性は「杖」をついて走って下って来ました。
明らかに、左半身が動かない様子でした。
脳梗塞。すぐにその言葉が浮かびました。
その男性は過去に脳梗塞を経験し、身体の半分が動かなくなったのだと思われます。
信じられませんが、その男性はそんな身体で村岡にエントリーし、走ってらっしゃいました。
僕は畏敬の念に打たれ、その男性の前で固まってしまいました。
その男性だけでした、コールドスプレーを
「左肩にかけてくれ!!」
とおっしゃったのは。
他のランナーは大腿部や膝、足首へのスプレーを希望しましたが、その男性はただ1人、「左肩」へのスプレーを希望しました。
左手で「杖」をつきながら走っているので、かなりの負担が左肩へかかっていると思われました。
僕は丁寧にじっくりと、その男性の左肩へコールドスプレーを吹きかけましました。
「ああ、ええ気持ちや!!『杖』ついてるから!!左肩が痛くなるんや!!」
その男性はそういっていました。
僕はブロガー失格かもしれません。その雄姿を前に畏敬の念に打たれ固まってしまい、男性に対して何1つ、言葉をかけることもできませんでした。
それどころか、男性のゼッケンの色さえ確認することを怠りました。
ただただ、男性が言われるまま、左肩にスプレーをして、彼の苦痛を少しでも和らげたい、ということで頭がいっぱいになりました。
やがて男性は自分から、
「ありがとう!!」
といってスプレーを終わらせると、再び坂を駆け下りるべく力強く走り去って行きました。
不自由な身体をモノともせずに。
しばらくは声も出せずに、僕はその場に立ちすくんでいました。
「盲・ろう」と書かれたビブスをつけて走ってらっしゃるランナーもいらっしゃいました。
目や耳、あるいはその両方、が不自由なのに、あんなすごい大会に臨んでいるランナーの存在は驚きでした。
数年前の京都マラソンでは、両膝から下に義足をつけたランナーも見ました。
僕の友人は、心臓の弁を牛の弁と取り替える手術をして、走っています。
友人のてっちゃんは、内臓の一部を摘出してなお走っています。
走らない宣言をするランナーへ
僕は言いたい。
どんな理由があるのか知りませんが、健康な身体、健康な2本の足があるにもかかわらず、わざわざ
「もう走るのをやめる」
と宣言する人たちへ。
その言葉を口にする前に、大会へ応援に行き、彼らの姿を見よ、と。
あなたは恵まれた環境にいるのではないか?
あなたの中では立派な理由かもしれないが、
体の自由を失ってまでも、あるいは、足を失ってでも、それでもなお走ろうとする人たちに、
顔向けができるくらい、その理由は立派な理由なのか。
もしそうではなく、それでも走りたくないのなら、それでもいい。個人の自由です。
ただ、黙って去ってくれ。
僕たちは声を枯らし、走りたい人たちを応援するから。