前回まで:
【入院3日目】
さて、無事、心臓カテーテルアブレーション手術を終え、ICUで一晩を過ごすことになった。
右足鼠蹊部だけは、一晩は絶対に動かすな、と言われている。動脈を切っているので、万一、動かして傷口が開いた時の出血がハンパなく、また、その出血が体内にも巡り、最終的に、傷口近辺の皮膚に、「血のシミ」が残ってしまうらしい。
そのため一晩は、カラダを起こすことも不可、右足は曲げることも不可。
ICU。名前は聞いたことがあるが、まさか自分が中で一晩を過ごすとは思ってもみなかった。
一辺が4メートル四方の、大きな部屋。中にはモニターが1、2個だけ。ほとんど何も置いていない。
昨夜の術後、この中でお方さまにごはんを食べさせてもらった時は、意識はあったが麻酔でボンヤリしていた。
右足は絶対動かせない。寝返りをうちたければナースコールで呼んでくれ。
でも、右足以外動かせる(起きるのは不可)ので、僕はベッドのヘリにつかまり、勝手に寝返りをうっていた。
別に痛いところなどはまったくなかったが、なかなか寝付けず、長い夜だった。
8:30、渡部先生登場。僕にとって、この心臓のムチャクチャな鼓動を、正常な状態に戻してくれた、神様みたいな人なのだが、本人はいたって、いつものように、静かなトーンで、クールな喋り。
「どうですか?痛いとことかない?」
「ないです」
「鼠蹊部、見ますね…(オムツをずらし)うん、出血もないし。きれいな状態です。もうコレ、外しておきます」
鼠蹊部に入っていた何かを、渡部先生は引き抜いた。
「もう、点滴もいいので、これも外しておきます。あとは、おしっこ管を、ナースが外してくれたら、もう、歩いていいですよ」
そう言って、僕の神様はICUを出ようとした。その背中に僕が、
「あの!先生!!」
驚き振り返る渡部先生。「はいっ?!」
「…。ありがとうございましたっ!!」
僕があまりに熱く言いすぎたせいか、あきらかに渡部先生は当惑気味に、
「い、いいえ!」
と言って出て行った。
入れ違いに、すごく美人のマレーシア人の看護師が入ってきた。
「ICUを出られるまで担当の吉井です」
マレーシア人は完璧に淀みない日本語で言った。
「よ、よろしくお願いします、池田です」
顔の下半分はマスクで覆われているが、褐色の素肌に、絵に描いたようなルビー型の目は、去年のミス・マレーシアと言われても驚かない美人だ。
このミス・マレーシアこと吉井さんは、当然、あのビッグ・イベントを担当することになる。
そう!
おしっこ管の引き抜き!!
あの、梅野による地獄のおしっこ管挿入の恐怖から未だ冷めやらぬ中、今度はそれを引き抜かなければならない!
イヤだ!
おしっこ管の生活にもう慣れた!
おしっこ管ぶら下げたまま、退院してもいい!!
おしっこ管ぶらさげて、これから生きていく!
と、ミス・マレーシアに懇願しようと思ったその時…
「おしっこ管、抜いてエエんかなあ」
と吉井さんが言った。
「さ…。さあ…。」
僕はトボけた。さっき、渡部先生はもう抜いていい、と言ってたのに。
吉井さんは少し席を外し、戻ってきて、おしっこ管に何やら細工をほどこしていた。
「おしっこ管ぬきますね〜」
「エッダメダメココロノジュンビガチョットマッテクダサイアカンデソンナンカッテニサキサキススメラレタラアナタ!!」
ちゅるんっ!
「あたし、おしっこ捨ててきますんで、お股の間とか拭いて、着替えておいて下さいね〜」
ももも、もう抜けたんおしっこ管?!!
「??はい。抜けましたよ?」
吉井さんはそう言うと、おしっこ満載でサッカーボール状に膨れ上がった僕の袋を捨てに出た。
よよよよかったぁぁ〜。
あまりにあっけないおしっこ管とのお別れに、腰が抜ける思いであった。
10:30、梅野が車椅子をもってICUに現れた。それに乗り、一般病棟にもどった。
「ご苦労様でした。手術、どうでしたか?」
梅野が聞いた。
「うん…。痛かった」
「そうですか。でも無事、終わってよかったですね!」
「うん」
病室に戻った。愛しの我が家だ。梅野が僕をベッドに寝かせつけた。
「あとひとつだけ…」
去り際に梅野が言い、立ち止まった。捜査中のコロンボ警部のようだった。
「おしっこが出たら、必ずあたしに報告して下さいね」
「は…はい。でも、なんで?」
「おしっこ管を抜いた後、まれにおしっこが出なくなる方がいるんです」
「そ、そうなんですか…」
「万一、そうなったら…」
「そ…。そうなったら…??!!」
「もう1度おしっこ管を挿入しますからそのツモリで!!」
「ええーーっ?!」
それから僕は必要以上に水をガブガブ飲み、1時間後、無事、おしっこを出し、ダッシュで梅野に報告したのは言うまでもない。
お方さまの叔母さん2人がお見舞いに来てくれた。その内のお一人は、つい先月まで、大きな手術をして3週間、入院されていた。
「そんなお身体でわざわざ来てくださらなくても!」
と言ったが、歯医者のついでやから、とか言って僕とお方さまの顔を見に来てくれた。情の厚い叔母さんだ。
夕方、ラン友のFさんが来てくれた。この方にいたっては、東京在住だ。たまたま大阪に出張で来ていた、とのことで寄って下さった。
京大卒、何カ国語も操り、どんなことにも深い知識を有するFさん。実は今年の1月11日、お方さまが初めてハーフマラソンを走ったひらかたハーフの存在は、このFさんが教えてくれた。
8月の北海道マラソンの時、Fさんに、
「今から間に合うハーフの大会って、なにかありますかね?」
と相談したら、
「ひらかたハーフなら大丈夫ですよ」
と即答してくれた。東京在住なのに、大阪の田舎で行われる小規模なハーフマラソンの存在を知っているとは、なんと造詣が深い人なんだ。
新幹線の時間をずらしてまで来てくれた。ありがとう、Fさん。
とにかく…。
手術は終わった。
お方さまは、明日は出勤の予定だ。
でもずっと僕につきっきりで、心身共に疲れ切っていることだろう。本人に聞いても、全然つかれてない、としか言わないけど。
「麗子、悪いけど、明日も会社休んで」
「えっ?なんで?」
「実は体温がずっと高いねん。ICUで計った時は37.8度、それからずっと、38度前後やねん。さっきは38.5度あってん。」
「う…。うん。分かった。会社に電話してみる」
ロビーで電話。
「会社の人、オッケーくれた。そんな事情なら、是非、旦那さんについてあげてください、って」
「そう。ありがとう」
疲れてるだろうから、19時前にはお方さまを帰らせた。帰らせてから、明日、来るのは昼すぎていいよ、とメールしておいた。
深夜4時、寝汗まみれで目覚め、体温を計測したら35.5度に下がっていた。
【入院日記4日目に続く】
↓ ↓ ↓