2006年3月、今からもう11年も前の話です。
当時はまだ前職で営業の仕事をしていた僕の元に、突然、妻から電話がかかってきました。
妻はこの日は休日でした。
仕事中の僕に妻が電話をしてきたことなど、この時を含めて、数えるほどしかありません。僕は驚いて電話に出ました。
妻は、仕事中の僕に電話をしたことを詫びたあと、唐突に、こう言いました。
「犬が、捨てられてるねん」
これが、僕たちとダイちゃんとの、最初の出会いでした。
必死で叫ぶ子犬
話を聞いてみると、こういうことでした。
休日なので、家で掃除をしていると、外から犬の吠える声が聞こえてきた。
子犬、まだ生まれて間もない子犬の声。
しかも、かなり切迫した、悲鳴にも近い声。
切れ目なく、延々と、吠え続けている。
窓ガラスを開けてベランダに出てみると…
間違いない、うちのマンションの前の、公園からその声が聞こえている。
まるで金切り声のような子犬の声、少しも休むことなく、叫ぶように吠え続けている。
結婚前はずっと犬を飼っていた妻も、こんな犬の声は聞いたことがない。極めて切迫した状況であることを感じ取った。
公園にはうちのマンションを含めて、複数のマンションが隣接している。同じように、この声に反応して窓から外を見る人がいても良さそうだが、今のところ誰もいない。
妻は外に出て、公園に入ってみた。
すると…
30cm四方くらいの、小さなダンボールに…
子犬が一匹、捨てられてた。
子犬は、段ボールから出ることができないほど小さい。まだ生まれて何日も経っていないようだ。
妻が駆け寄り、頭を撫でてやると…
やっと、子犬は、叫ぶのをやめた。
ペット禁止
「で、どうするつもりなん?」
と電話で僕は聞きました。「うちのマンションはペット禁止やで」
ちょうどこの時、僕は何年かに一度、順番が回ってくる、マンションの管理組合の理事を担当していました。そして、たまたまペット問題が議題に上がっていて、自分のマンションのペット事情について詳しく知っていたのでした。
僕たちはここを中古で購入したのですが、僕たちが入居前、ある老夫婦がワンちゃんとともにこのマンションに住んでいたらしいです。
当マンションはペット禁止であることはじゅうぶん承知の上で購入したはずなのに。
なんとかなる、とタカをくくっていたのでしょうか…
結局、ご近所からクレームが入り、管理組合も老夫婦と何度も話し合いを持った結果、そのご夫婦は退去されたらしいです。
そのほかにもペットにまつわる話はいくつもあるのですが、決まりは決まり。うちのマンションではペットは禁止です。
「だから、どうしたらいいかな、と思って電話してん」
僕は仕事が忙しかったので、ぶっきらぼうに、妻に言いました。
「叔母さんに電話して、聞きなさい!!」
妻の叔母さんは、ワンちゃんを何匹も飼っています。また、社交的で知り合いが多いので、知恵を貸してくれる人も多くいます。
僕は叔母さんに丸投げする形で、その電話を切ったのでした。
傘をさす妻
夕方になると、雨が降り出しました。
僕は犬の話が気になっていました。定時に上がれるよう区切りをつけて、いつもより早く会社を出ました。
難波の駅から、妻に電話をしてみることにしました。
「捨て犬の件、どうなった?」
「うん、叔母さんに電話したら、お叔母さんが、安西さんに電話して、いろいろ聞いてくれはってん」
「安西さんって?」
「動物愛護協会の人」
「ああ、知ってるよ。叔母さんのお友達の女性やね」
「安西さんのアドバイス。『まず、それ以上、吠えさせてはダメ。窓を閉めたマンションでさえ鳴き声が聞こえるということは、かなりの声だから、どこか、他の住人が、クレームとして警察や保健所に電話したら、もうその子は殺されてしまうから。保健所の職員に捕まったら殺されてしまうから。絶対に吠えさせたらダメ』って」
「今は吠えてないの?」
「うん、人間がそばにいたら、安心して吠えないみたい。でもちょっとでも離れたら、不安ですぐ吠えるねん」
「えっ、じゃあ麗子はずっとその犬の横にいるの?」
「うん」
「えっ、ずーっといてるの?」
「うん、離れたら吠えるから」
「ええー?!」
僕はさすがに驚きました。妻はずっと、心ない誰かに、ボロ雑巾のように捨てられた、縁もゆかりもない子犬のそばで、その子が吠えないよう立ち続けていたというのです。
ボロ雑巾のように捨てられた…
僕はハッとしました。なぜ妻がそれほどまでに固執するかが理解できたのです。
八尾駅に着きました。僕はすぐ妻に電話をしました。
「駅に着いたよ。すぐ行くから」
雨は夕方から、ずっと降り続いていました。カバンから折り畳み傘を出し、小走りで
家の前の公園に向かうと…
生い茂った雑草の向こうに…
妻の傘が見えました。
妻は傘をさして立っていました。
傘をさして、足元の段ボールが濡れないよう、守っていたのでした。
段ボールの中には、小さな子犬が遊んでいました。
『名前はチャーニー』
その段ボールの中に、子供の字で、そう書かれていました。
「あなたのクルマの毛布を敷いてあげてん。ごめんね」
と妻は言いました。僕がクルマを買ったとき、ディーラーさんがおまけでつけてくれた毛布。とても暖かく、色合いが綺麗で、すごく気に入ってたんです。
その宝物の毛布が、子犬の段ボールの中に敷かれていました…
しかし妻が何時間もこの子のそばに立っていたことを考えると、毛布のことで小言を言う気になど、とてもなれませんでした。
「で、どうするつもり?安西さんのアドバイスは他にはないの?」
「うん、とにかく、今日を乗り切って欲しい、って。明日になったら、どこか、預かってくれるところも出てくるけど、今日はウチで預かって欲しいって」
「今日1日くらい、問題ないやん!いくらペット禁止でも、親戚の犬を2〜3日預かるとか、それくらいは構わないねんから」
「うん」
何時間も、外で段ボールに傘をさしかけて立っていた妻に呆れて、僕は言いました。
「でも…。アタシが勝手に、家に入れたら、あなたに悪いかなって思って」
こんな僕でも一応、顔を立ててくれて、妻はずっと、公園で、犬の横で、待っていたのでした。
僕は最初の電話で、妻にぶっきらぼうに対応したことが、とても恥ずかしくなりました。
小さな段ボールに捨てられた命。
妻が、これほど、この命に執着するのは理由があります。
妻は、この子犬に、30年前の自分を見たのでした。
そんなことにも気づかない僕は愚か者でした。
うちのマンションで飼うことはできません。でもとにかく、僕はその段ボールを抱えて、妻の手を取り、わが家へと向かいました。
(続く)