大阪マラソンを走られた皆さん、お疲れ様でした!!
みなさんの頑張りと、沿道の応援が一つになって、素晴らしいマラソン大会になったと思います!!
ところで…。
みなさんは、こちらの女性を覚えていらっしゃいますでしょうか?
ピエロの仮装をして、グレープフルーツと梨を、ランナーのみなさん用に準備し、34km地点で提供してくれていました。
彼女は現在、名古屋にある大学で教鞭を執っている先生でいらっしゃいます。
わざわざ名古屋から、大阪マラソンを応援するためにだけ、来てくれました!!
そんな彼女も、もちろん走ることが大好きです。
初めて会ったのは、何年も前の北海道マラソン。制限時間5時間の道マラのフルはまだ難しいから…。と、10kmファンランを走り、ゴール後、お方さまと合流してフルを走る僕たちを応援してくれました。
その後、京都マラソン、大阪マラソン、名古屋ウィメンズマラソンでもフルを走っていらっしゃいます。
2015年2月、京都マラソンスタート前。
乗鞍天空マラソンという、雪の壁の間を走る大会が大好きで、非日常的な雪渓を走っている写真を何度も見せてくれました。
そして2015年、「ぐるっと富士山一周100kmウルトラマラニック」というウルトラマラソンを走破して…。
そして彼女はもう2度と、走ることができなくなりました。
今日は、彼女について、少し話をしてみたいと思います。
生い立ち
彼女はカナダで生まれました。
外交官だったお父さんの仕事の都合で、幼い頃より世界各国で暮らされました。
小学生の頃は、サンフランシスコやタイのバンコクにいらっしゃいました。
ジャカルタにも長くいた、とおっしゃっていました。
初めて入学した大学はエジプトのカイロにある大学だそうです。
当時、お父さんは在エジプト日本大使でいらっしゃったので、年に数回、公邸であるご自宅に、エジプト在住の日本人全員を招待されていました。
その中には、現在、東京都知事でいらっしゃる女性も含まれていたそうです。
なぜこんなことを書くのかというと…。
この、長い海外生活や、アカデミックな生活こそが、のちに彼女と彼女のご家族の命を助けることになるからです。
病魔との闘い
マラソンに目覚めたのは、もう若いとは言えなくなってから。でもマラソンのいいところは、年齢がいっても、ベストタイムを狙えることだ、と以前彼女はいっていました。
しかし、様々な病魔が、彼女を苦しめます。
大腸がん
大腸がんと言っても、お腹を開いて病巣を摘出するだけではなく、それに付随する何種類もの手術が必要でした。
病巣を摘出する手術も、一回では終わらず。
それでも、彼女はそれらの手術に耐え、その恐ろしい病気に打ち勝つことができました。
また走れる、嬉しく思ったのもつかの間…。
コラーゲンの形成異常
彼女は、軟骨や靭帯が劣化しやすい病気でもありました。
いや、正確には、劣化しやすいのは軟骨、靭帯だけでなく…。
身体中の全ての組織が劣化しやすい、コラーゲンの形成異常という状態にありました。
そのため、大腸がんやその他の手術後、縫合した部分が開いてしまうというアクシデントにも見舞われていました。
がんの手術の後、再び走れる、と喜んだのもつかの間、走っていると消化器官からの出血。
摘出手術時の結合が、過度の運動で開いてしまったのか…。
もう走れなくなるかも…。
しかし、不幸はまだ続きます。
骨盤の骨折
走っていると、腰部に痛みが。詳しく検査すると…。
骨盤の一部が、疲労骨折を起こしていました。
骨盤とは、
①左右の「腸骨」と
②脊椎の最下部にある「仙骨」
という3つの大きな骨で構成されています。それぞれを結合させているのが軟骨なのですが、この軟骨が劣化し、結果として骨盤の一部が疲労骨折を起こしてしまいました。*1
これは、治すことができません。
走れば激しい痛みが伴います。
そして、骨折箇所が広がれば、どうなるかわかりません。
このまま走り続ければ、骨盤が壊れてしまうでしょう。
もう、走れない…。
最後の挑戦
そう思ったとき、彼女は最後にやり残した「ウルトラマラソン」に挑戦したのでした。それが2015年の「ぐるっと富士山一周100kmウルトラマラニック」でした。
深夜にスタートするこの大会。大自然を満喫するマラニックのため、エイドはわずか3箇所、コンビニもほとんどありません。
必要な装備は全て自分で背負って走らなければいけません。
当時、サロマの完走を目指していた僕は、知り得た情報を全て彼女に送りました。読むべき本、入手すべき装備、飲むべき薬、摂取すべきサプリなど…。
初めての夜間走、誰1人、知らない参加者、初めてのザック走、初めての100km走…。
大会が近づくにつれ、「不安」「後悔」といった言葉が、彼女の口から漏れ出しました。
しかし…。
「私には『次』はない」
という言葉が、僕の胸に刺さっていました。
何としても完走させてあげたい…。
僕にできることは彼女を励まし、アドバイスを送ることだけでした。
やがて、覚悟が決まった彼女。
当日。
苦手な夜間走をくぐり抜けた彼女。
いつしか、初対面の参加者の方の数名と、グループを形成するようになりました。
不慣れなランナー達が集まって、様々な難関を乗り越え、ついに彼女はゴールへとたどり着きました!!
「私にとっての初100kmは、想像していたような自己の限界との闘いではなくて、ただただひたすら「まだこれだけしか進んでないのぉ〜〜?!」と走っても走っても距離が減らない失望感と忍耐の連続でした。
それでもずっとずっと歩みを止めなければ、必ずゴールできると思って、ゴールが近づくにつれて喜びが込み上げてきました」
こうして、人生で初めて100kmを走破した彼女。
さようなら、ランニングシューズ
骨盤の骨折箇所は限界に達していました。
それ以来、2度とランニングシューズを履かないと自分に誓いました。
病魔は終わらない
しかし、不幸はさらに続きます。
今度は、首の部分の軟骨が劣化し…。
彼女の脊椎の先端が、延髄(脳幹部)に食い込んで行く、という症状が発症しました。
激しい頭痛。
この症状は、手の打ちようがありませんでした…。
日本では。*2
極めて特殊な手術
彼女には「切り札」がありました。
彼女の家族の中で、このコラーゲンの形成異常を患っていたのは彼女だけではなく…。
実は15年も前に、すでに彼女の次女さんに、同じ症状が出現していたのでした。
そのとき、彼女は、自分の娘を助けるため、この分野では遅れ気味である日本の医療より、もっと進んだ医療がないものか、英語で書かれた医学書を読み漁りました。
そして、この分野の世界的専門医であるDr.Bとコンタクトを取り、娘さんの主治医となってもらっていたのでした。
Dr.Bはこの15年間、彼女の次女さんの経過をずっとフォローしてくださっています。
そしてDr.Bは、その間にもこの分野の手術を無数にこなし…。
ついに2008年、極めて特殊な手術方法にたどり着きました。
その手術は、日本では脳外科医でさえ、そんな手術の存在すら知らない、極めて特殊な手術でした。
簡単に言えば、
「頭蓋骨と脊椎を、ネジで固定する」
というものです。
その後、献体された遺体から採取した骨と化学物質を合わせて粘土状にしたものをかぶせて固定します。
世界中で、執刀できる医師は、Dr.Bを含めて2名のみ。
ただし、その手術を行うと、首を回すことができなくなります。
簡単にいうと、前しか向けなくなるのです。
それでも彼女はその手術を受けることを決意。
今年の初めに、先生がいるニューヨークで、手術を受けました。
手術は成功し、頭蓋骨の脊椎への沈降は無くなりました。
(その後半年間は、bone growth stimulator(骨成長刺激機)という機械で1日4時間、その部位に電波を当てて骨の固定を促進しなければならなかったそうです)
退院時の様子。向かって左の次女さんはイギリスから、彼女の後ろに立つ長女さんと、右の長女さんのお嬢さんはカナダから、手術に付き添ってくれました。
閲覧注意・手術後の首
今の彼女の状態は…。
「普通の人が、「首を寝違えて痛い」と思っているその状態が、自分にとっては通常の状態」
だとおっしゃっていました。
手術後のレントゲン写真。6本のネジが確認できる
首をくるっと回すことはできなくなりましたが、悪い症状は治まりました。
今、彼女はこの手術について、日本の脳外科医よりも詳しく知っている人物となっています。日本の主治医に彼女がレクチャーする立場になっていて、脳外科医からこの手術に対するフェイスブックのページの作成を勧められているらしいです。
彼女の現在
そんな彼女…。
もちろん、もう2度と、走ることはできません。骨盤もそうですが、首がそんな状態でもあるのですから。
いま、彼女はどうしているかというと…。
毎日、ジムに通い、水泳をしているらしいです。
1日2回、プールに入る日もあるようで、週に8回以上、プールで泳いでいらっしゃいます。
それも、ただ単に泳いでいるわけではなく、レッスン、それもかなり激しいレッスンを受けていらっしゃいます。
何キロ泳いだらプールサイドで激しい筋トレをして、そのままプールに入ってさらに何キロも泳ぎ、を繰り返すといったレッスン。
まるで高校の部活みたいだ、と自分で笑ってらっしゃいました。
もちろんコーチは彼女の首のことを理解しているので、首に負担がかからない練習です。
背泳を中心として、競泳の大会に何度もでて。
年代別で金メダルを2個もとったのよ、と誇らしげに僕たちに見せてくれました。
彼女が受賞した金メダル
「転んでもただでは起きない」、なんて言葉は、彼女の人生にとって軽すぎる言葉かもしれませんが。
何度もなんども襲いかかる不幸を跳ね返し、そしてその先にある人生の喜びを見出す。
なんという、驚異の生命力だろう、と僕は思います。
彼女が応援した、大阪マラソン
大阪マラソンは…。
大阪マラソンは、そんな彼女が名古屋から来て、応援をしてくれたマラソン大会なのでした。
自分はもう2度と走れない、マラソンの道。
そこを走っているランナーの皆さんを、彼女が応援してくれた大会なのでした。
きっと、いつも以上に、応援の力を感じたランナーさんも多くいらっしゃったのではないでしょうか。
そして、彼女のことを考えるたびに、僕は思うのです。
走れるってことは、なんて幸せなことなんだろう、と。
エピローグ 〜彼女からの手紙〜
僕はこのブログの下書きを彼女にメールで送り、何箇所か訂正してもらいました。レントゲン写真なども、送っていただきました。
そしてそのメールの最後に、彼女からメッセージが添えてありました。
そのメッセージを読んで…。
僕は不覚にも、落涙してしまいました。
ああ、僕は、なんて愚かな男なんだ。
「まだ、私は諦めていないんです」
そこには、そう書かれていました。
そのメッセージを添付して、この話を終わりにします。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
池田さんお心のこもった文面でこのような場で紹介していただけて、とても光栄に思います。大阪マラソンの応援、ご一緒できてとてもとても楽しかったです。そして最後のランナーを見送って、またある記憶が蘇ってきました。それは私が最初に沿道に立ってマラソンの応援をしたときのこと、ある手術で翌週入院することになっていたときでした。トップランナーの通過から、最後のランナーが苦しそうに歩いて通過するまで何万人ものランナーがそれぞれの自己にチャレンジする姿を目の当たりにして、「これほど大勢の人々が頑張っているのだから、私でもビリでのゴールなら目指せるかもしれない」という気持ちが沸々と湧いてきました。その気持ちは手術後、病室のベッドの上でどんどん強くなっていき、退院するときには「絶対に走る」という確信に変わっていました。そうして、「できるだけエスカレーター、エレベーターを使って、できるだけ歩かないように」と医師から忠告されていた私が、フルマラソンだけでなく、ウルトラマラソンやトレイルランなどにも参加できてしまったのです。医師の忠告を守らなかったことで症状が進行した、という面はあったかもしれません。それでは、じっと大人しくしていた方が良かったのか、というと絶対にそんなことはない、と自信を持って言えます。池田さんご夫妻をはじめ、ランニングを通してどれほど素敵な人々と出会い、楽しい時間を過ごすことができたか、それはどんなものにも代え難い私の宝物です。そう、それで、池田さんは「もう2度と走れない」と書かれましたが、私、本当は走ること、諦めてはいないんです。またあの時の気持ちが蘇ってきて、「制限時間ギリギリのゆるゆるランなら、マラソン、ゴールできるかもしれない」っていう気持ちでいます。どうなることでしょう?他に楽しいこともいっぱいあるけれど、また走りたいな、とも思います。応援していただけたらうれしいです。いつもいつも励ましてくださってありがとうございます。これからもどうぞよろしく!万里