その日は…
当時、付き合っていた女と、2ヶ月ぶりに会える日だった。
俺はそれをとても心待ちにしていた。
その日、女は仕事が休み。
俺は早番のシフト。
難波駅に19時の約束だった。
仕事がその日は忙しく、早番も残業やむなし、の空気だった。
しかし俺は顰蹙を覚悟で定時退社を願い出た。
ふだんは快く残業する俺の頼みだ。責任者は許してくれた。
他のメンバーの視線が突き刺さったが、俺は会社をあとにした。
19時前に、難波についた。
女はまだいない。
19時。
女はまだこない。
19時10分。
女はまだこない。
19時20分。
女はまだこない。
さすがに気になり、ケータイに電話をかけた。
呼び出し音。
呼び出し音。
呼び出し音。
女は出ない。
俺は電話を切った。
そして待った。
19時30分。
女はまだこない。
19時40分。
女はまだこない。
再び、ケータイに電話をかけた。
呼び出し音。
呼び出し音。
呼び出し音。
女は出ない。
俺は電話を切った。
2ヶ月ぶりの逢瀬のはずだった。
しかし、俺は気づきつつあった。
俺はふられたんだと。
いや、そもそも、女に最初から気なんかなかったんだと。
2ヶ月も会えないなどという状況じたいが、向こうからの意思表示だったんだ。
けっこういい女だった。
あの女なら、結婚詐欺でも構わない、などと、冗談で友に話したりした。
結局…
俺は、詐欺にかける価値すらない、ってワケ。
来る気など、最初からなかった約束…
電話もバックレ。
馬鹿な男だよ。
それでも、俺は待った。
19時50分。
女はまだこない。
そして20時。
女は…
こなかった。
あの時の同僚の視線が、今となっては辛かった。
みじめなフラレ男だよ…
俺は改札を通った。
学園前行きの電車に乗った。
みじめだよ。
みじめだよ。
でも…。
仕方ない。
性悪女に引っかかったんだ。
いい女に出会えて、ちょいと夢を見ちまったけど。
いま、夢は終わった。
あしたからまた、別のレールを歩もう。
電車が鶴橋についた。
その時…
電話が鳴った。
女からだった。
俺は目を疑った。
もうやめてくれ。
そう言いたかった。
出るべきではない。
とっさにそう思ったが…
出て、しまった。
電話口で女は、なにやら謝罪の文句を口にした。
今となっては覚えていない。
ただ…
2ヶ月ぶりに会えるはずだったのに。
何度も電話したのに。
いっさい、応答もしない女だ。
1時間、待ったのに。
何の連絡もしない女だ。
たった今、俺は別のレールを歩もうと決めたのだ。
もう。
引き返すつもりはない。
俺は電車を降りなかった。
女は、学園前に向かう、と言った。
勝手にしな。
いつもの喫茶店で待っていてほしい。
女はそう言った。
もうやめてくれ。
また来ないつもりか。
学園前についた。
バス停。
バスが来た。
俺は…
バスに、乗らなかった。
喫茶店に向かった。
馬鹿な男だよ。
せめてきょう1日だけ、馬鹿を通してみよう。
喫茶店には…
俺しか、客はいなかった。
俺の鼻腔を…
白檀の、甘く、濃厚な香りがくすぐる。
コーヒーの、濃密な薫り。
そいつを口に運んで、俺は待った。
10分。
20分。
30分。
扉が開いた。
女が、入って来た。
「ゴメンなほんまぁ?!ゴメンやで怒ってるぅ?!きょー、朝から、親戚のオッサンと焼肉くーて!ビール10本ワイン5本、空けてもーて!夕方から爆睡ですわ!!電話くれてた?!さっきまで爆睡!!バ!ク!ス!イ!まだ目ヤニついてますわコレ!!ホンマごめんやでぇ!!」
し…
しばい…たろか…
強烈なニンニク臭。
白檀もコーヒーもかき消す。
爆裂なアルコール臭。
この女が…
10年後…
「お方さま」と呼ばれる存在になろうとは…
その時の俺は、まだ知るよしもなかったのだった…