前回まで:
【入院2日目・後編】
手術室。
テレビや映画ではよく見る光景だ。
しかしそこに患者側の当事者としてリアルに入室する時、手術室を映画館で見た経験などなんの役にも立たない。
「池田さん。頑張ってね」
僕を乗せてきた車椅子を引きながら、梅野が退室して行った。
ベッドに乗せられた僕はもう、まな板の鯉だ。
全体を照らしているのは蛍光灯の自然色だろうが、入室した僕の目に映った手術室は、薄い青と薄い赤で支配された部屋だった。
先生やスタッフのウエアが薄い青で、女性スタッフのウエアが薄い赤だった。ベッドも薄い青。その他、なんに使うのか分からない台や箱なども薄い青で統一されていた。
入室してすぐ、渡部先生を探す。部屋の片隅にいらっしゃった。
「じゃあ池田さん、始めていきますが、まず体温を計るため、鼻から細い管をいれます。喉まできますが、きたら、細いうどんを飲み込む要領で、飲み込んでください」
渡部先生の指示のもと、隣のゴリラ並みの体格の助手が、その細い管を入れてくる。
喉まできた時、かなりオエオエ反射がきたが、渡部先生の「細いうどん」の要領で、なんとか飲み込みに成功。
僕はこの時、渡部先生がついたウソを見抜いた。
この鼻から入った管は、体温を計るためのものではない。これは絶対、胃カメラだ。
入院1日目、僕は胃カメラがどうしても飲めなかった。胃カメラで心臓を裏から見て、手術の際に邪魔になる血栓等の有無を事前に把握するという、その作業ができていなかった。
いま、渡部先生は、喉の胃カメラより細い、鼻からの胃カメラで、それを確認しようとしているのだ。
でも、胃カメラを僕がメチャクチャ嫌っているのを知ってるので、たとえ細くても、胃カメラと言ってしまえば、これも飲めない恐れがある。
だからあえて渡部先生はウソをついて、体温計だ、といったのだ。
先生のこのウソに、この手術を絶対に成功させる心意気を感じた。
「じゃあ、眠り薬をいれていきますね〜」
眠り薬て!昭和か!
ゴリラ医師が言う。「シール貼っていきます」
渡部先生は僕の足元にいる。僕の頭のあたりにいる、ゴリラ医師を中心とした何名かのスタッフが、僕の上半身、特に左肩あたり、に、無数のシールを貼っている。なんのシールなのかは知らないが、熟練者の手さばきだ。
しかし…。
全然、眠り薬きいてまへんで!おれ、意識、ハッキリしてまんがな!
「寝て、気ぃついたら終わってた感じでお願いします」てお願いしたやん!
でも…。
ベッドがグルグル回ってる…。
サッカーのパス回しみたいに、医師たちがこのベッドを蹴り回している…
ゴリラがシールを貼る→ベッドを蹴る→ベッド1メートル飛ぶ→次の医師がシール貼る→蹴る→ベッド飛ぶ、そんな具合でベッドが回され回され〜。
そんなアホな、手術中、サッカーみたいに医者がベッド回しをするはずがないやんか〜。
でも、なんか、めっちゃ、気持ちいいわぁ〜…。
もちろん、この時は既に、眠り薬は効いていたのだ。ぼんやりと、ふわふわして、ベッドがグルグル回っているように感じていたが、それが麻酔のせいだとは、なぜか思っていなかった。自分の意識ははっきりとしている、と理由もなく思っていた。
やがて、右足の鼠蹊部に、渡部先生が太い針を1本、ぶすり!
痛っ!と思ったが、僕は意外に注射関係の痛みには強い。その時は騒ぎ立てなかった。
「首、入れまーす」ゴリラが言った。首はチクリとはしたが、それほどの痛みはなかった。
ところが!
鼠蹊部担当の渡部先生、刺した針を上から、全体重をのっけて、グリグリ!グリグリ!!
痛い痛い!
針、刺すのは分かるわい、でもそれを上からグリグリすんのはどういう了見や?!中世の拷問やん!
しかもそれは1本ではなく!
渡部先生、5寸釘はある太さの針を、僕の鼠蹊部に何十本も、
ぶすり!グリグリ!ぶすり!グリグリ!
痛い痛い痛い!!
酸素マスクの内側で僕はうめいた。渡部先生の手が止まる。
「なんか言うてる?」
しかし、先生の手が止まったので、痛くないので、僕は黙る。
先生作業再開。ぶすり!!グリグリ!!
痛い痛い!!
手が止まる。
「なんか言うてる?」
これをなんどか繰り返し、先生は僕の麻酔が切れてきたことに気づいた。
「いや〜、ゴメンゴメン。眠り薬、足しとくね〜。ゴリラ君、チョメチョメを3足して」
「3じゃなくて4にして!」何の薬か、3mgなのか3ヘクタールなのか、単位も分からなかったが、僕は4欲しい、と念じた。すると…
「ゴリラ君、やっぱり4にして」
渡部先生が指示を変えた。おお、念ずれば通ず!
このあと、これは絶対に、麻酔の中の僕の妄想なのだが…。
僕は磔(はりつけ)にされていた。キリストみたいに。渡部先生が、
「じゃあ行きまーす」
と何かのスイッチを入れる。
ぐおおおーー!!
僕の胸が、経験したことのない状態になる!
心臓が、ムチャクチャな動きをしている!左胸で心臓が狂ったようにダンスをしている!!それはおそらく、不整脈を人工的に発生させているのだ!
「はいー」スイッチをきる。
ふぅ〜〜…
「はい、じゃあ行きまーす」
渡部先生が別のスイッチを入れる。
がおおおおーー!!
こんどは胸が締め付けられる!!胸ぜんたいを、巨大な板で押し潰しているようだ!経験したことはないが、本能が僕に教えた、いま、僕の心臓は止まっているのだ、と!!
「はい、切りまーす」
ふぅ〜〜…
これを、何度も何度も繰り返す。不整脈発生は、気持ち悪いだけだが、心臓マヒ状態はかなり苦しい。
「痛い痛い!!」
と僕がうめく。渡部先生、また僕の麻酔が切れたことに気づいた。
しばらくして、左肩のシールを猛烈な速度で剥がし始めた!もう終わったのか?!と思ったが、終わりではなかった。その後もしばらく、なにやら処置が続いた。
そしてしばらくして、ゴリラが首の針を抜き、絆創膏的なものを貼ってる感じがした。
「終わりましたよ〜」
渡部先生の声がした。
心からホッとすると同時に…。
僕は左胸に意識を集中した。朦朧とした意識を、心臓に。
心臓は…。
感じたことがないくらい、穏やかな状態だった。
不謹慎な言い方だか、それこそ、「動いてない」くらい、静かに、静かに鼓動していた。
24時間365日、完全にバラバラに、猛スピードで鼓動していた僕の心臓が。
「成功したんや…」
と僕は実感した。
ベッドの状態で、手術室を出た。姉が、「話しかけていいんですか?!」と聞いている。
お方さまが涙を溜めた目で、僕の顔を覗き込んでいる。
「何時間、経ったの?」
僕は聞いた。
「2時間半やで」
お方さまが答えた。
僕はずっと意識があったつもりだったが、その意識によると、手術時間は約30分だ。
つまり、最低2時間は、麻酔で寝ていたのだ。
姉とお方さまが何かを僕に話しかけた。僕はハッキリとそれに返答した。
麻酔で感覚はぼやけているが、笑顔を作ることはできた。
そのままICUに運びこまれた。時計はジャスト18時。
しばらくして姉は帰宅した。お方さまも、ICUの面会時間は19時まで。
「お食事、食べますか?」ICUの看護師さんが聞いた。昼は欠食だったため、アホな話だが腹ペコだった。
まだ麻酔が効いているので、手も首もぜんぜん動かせない。お方さまが、ひと口ずつ、丁寧に、食べさせてくれた。
献立は、
・おにぎりにしたご飯150g
・赤魚の煮付け
・じゃがいもの煮物
・炒り卵サラダ
・フルーツヨーグルト
だ。
24時間前、初めて食べた病院食は、まるで味がなかった。塩分を極限まで控えた味付け。まずいとは言わないが、お世辞にも美味しいとは思わなかった。
それが今はどうだ。
こんな美味しいものが世の中にあるのか?!
赤魚の身は、歯ごたえがしっかりとして、魚の肉の旨みが凝縮されている!
じゃがいもの味は、大地の味だ!地球が育てた野菜の味だ!
炒り卵の風味が、口から入り鼻から抜ける!舌の上でとろける炒り卵よ!
ヨーグルトの爽やかな酸味となめらかな口触り!果物の甘みと官能的な口どけと融合し、美味のハーモニーを奏でている!
僕は夢中で食べた。ひと口ずつ、丁寧にお方さまが口に入れてくれるので、お行儀よく食べれたが、もし自分の手が使えて食べていたら、狂ったように食い散らかしていただろう。
全てを平らげ、お茶を飲んだ。
お方さまが、心からホッとしたような表情で僕を見ていた。
「姉ちゃんと、どんな話してたん?」僕が聞いた。
「お姉さんね…。ゆうべ、一睡もしてないねんて。だから、ロビーのベンチで寝てくる、て言ってはったけど、やっぱり寝られへんかったって」
今日の昼ごろ。姉はカテーテル手術がどれほど簡単なものかを軽い口調で僕に説明してくれた。でも、本当は、僕を心配して、寝られないほどだったんだ。
「麗子は何をしてたん?」
「あたしはね…」
お方さまは何かを言ったけど、僕は安心しきった子どもみたいに眠ってしまい、その言葉を最後まで聞き取ることはできなかった。
【入院日記3日目に続く】
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