昨日、下戸に関する記事を書いた。
意外に反響があったので、昨日の記事に書ききれなかったことを付け足していこうと思う。
下戸だって、飲み会は好き
誤解がないように最初に申し上げておきたいのだが…
僕自身、飲み会そのものは大好きである。
みんなで楽しく騒げれば、こんな楽しいものはないではないか。
特に、酒が飲める人は、酔うことでいつも以上に明るくなり、シラフでは聞けないこと、あるいはシラフでは思いつかない言動などを酔った勢いで放出してくれる。
確かに、下戸には、酔っ払って精神の壁が崩れると伸びてくる、酔っ払い特有のあの不思議なシナプスは出せない。だから、酔っ払い同士がまるで単細胞生物から多細胞生物に進化するかのごとく繋がっていく、あの連帯感は経験できない。
その経験はできないが、飲み会そのもののハチャメチャ感は、下戸にとっても楽しいものだ。
日常ではとても見聞きできない場面に遭遇することもできる。
去年の某マラソン大会の打ち上げで、酔っ払った女性陣が、我れ先に、とばかりに、とんでもない仮装用の衣装を身につけて大騒ぎした。あの飲み会なんか、一生忘れられないほど楽しい飲み会であった。
▼モザイクを外せば、3名ともすごい美人!こんな場面は飲み会以外では遭遇できない(^◇^;)

なぜか存在する、飲酒強要族
ただし、そこに飲酒を強要するヤカラが居た場合は状況が一変する。
「オレの酒が飲めないのか」
的な、誰に聞いたのか知らないが、およそこの世に存在する決まり文句の中でも、もっとも愚かで知性の片鱗もない決まり文句を、未だに吐くヤカラが存在することも確かだ。
現在ではアルハラという言葉もあり、そんな人種は少なくなってきている。
だが30年前は、白亜紀時代の恐竜のように、そんな人種が地上を支配していた。
孤高の騎士・下戸(げこ)。
下戸残酷物語
今は、
「この世には、アルコールを分解できない体質の人間が存在する」
という認識が広がったので、われわれ下戸にとってもある程度、住みやすい世の中になった。
飲み会で飲酒を強要する、愚かな「飲酒強要族」が減ったことは喜ばしい。
しかし今から30年くらい前、僕が大学生だったことは、
「飲めない」=罪悪
であった。
「僕、飲めないんです」
というセリフを言おうものなら、
「甘えたこと言ってんじゃねえ!そんなこと許されると思ってんのか?よーし、みんな!今日はコイツをツブそう!!」
となって、今日の飲み会のターゲットとなってしまう。
「飲めない」とも言えない、かと言って、「飲める」わけない…
どっちのスタンスも取れない。
かつては、下戸にとって、飲み会とは生き地獄であった。
30年前の、男女間の下戸格差
ただし、上記のような状況は、僕のようなタイプの人間に起こりうること。
つまり、「飲めないが、サービス精神旺盛」というタイプに。
「寡黙で、何を考えているのかわからない」と言ったタイプには、そもそも飲める連中も積極的には話しかけないので、飲み会の席でも透明人間化していた。普段、そんなタイプの人間を羨ましいとは思わないわれわれ「サービス精神派」も、飲み会の席だけは、「寡黙派」を羨ましく思ったものだった。
また、飲めようが飲めまいが、女性には優しい。これも飲み会のルールであった。だから女性の場合、下戸であっても、それほど無茶な飲酒を強要された経験は少ないのではないだろうか。
男女差別、などと言われるが、飲み会の席で追い回されるたびに僕は思っていた、
「男女平等にしてくれ!
と…
飲めない女性をターゲットにして、嫌がる彼女に徹底的に飲酒を強要している姿など、たとえどんな時代でも最低人間の様相だ。そんなことをする人間はほとんどいないだろう。
結果的に、ターゲットとなるのはわれわれのようなタイプの人間になってしまうのだ。
(余談であるが、最近、散見される、大学生たちが女性を悪酔いさせ、介抱に見せかけて乱暴する、など、昔は考えられなかった。飲酒強要族は愚かではあるが、人として最低限のマナーはあった。それを考えると、表では、下戸への認識が広がりながら、裏では人間性が喪失しつつあるという、現代社会の闇を感じてしまう)
30年前の大学生は、勘違いしたアホ
特に大学時代がキツかった。僕は演劇関係のサークルに所属していたが、公演が決まった際の「打ち入り」、公演終了後の「打ち上げ」、などの飲み会は、大抵が「弱いものイジメ」の様相を呈するのだった。
この場合の「弱いもの」とはつまり、アルコールに「弱いもの」を意味する。
「強いもの」が「弱いもの」に飲酒を強要する。「オレも同じ量、飲むのだから!オマエも飲め!」という論理で。
でも大学に入学できたということは、多少なりとも知能を持ち合わせているはずだ。ゆえにそんな連中でも薄々は感づいていたはずなのだ。
「この世には、アルコールに強い人間と弱い人間がいる」
ということを。
しかしその種の連中は、そんなことに気づいていないフリをし、アルコールに強い体質に生まれたという我が世の春を謳歌しながら、弱いものに飲酒を強要していたのだ。
結果、弱者は飲み屋の前のゴミ袋を枕に、朝まで酔いつぶれて放置される、などという仕打ちを受ける羽目になるのであった。
大学生など、所詮は大人になったと勘違いしたアホなので、それを大人への通過儀礼であるかのごとく感じていたのであった。
新入社員時代
社会人になると、上下関係はさらに明確となり、上司の命令は絶対、といった空気感で職場は支配されていた。
僕は運よく、上司もあまり飲めない人だったため、社内飲み会での飲酒強要被害は思いのほか少なかった。
しかし、得意先を交えた飲み会となるとそうもいかない。
愚かな飲酒強要族は、そこかしこと存在した。
下戸がブチギレない理由
飲めないなら、飲めないことをもっと強くアピールすれば良いではないか、と思われるかもしれない。
しかし、そうもいかないのだ。
もちろん、こちらとしては精一杯の抵抗は試みる。「飲めない」アピールは行う。
だが、愚かな飲酒強要族が、その主張を取り下げなかった場合…
ここで、ブチギレたらいいのではないか?
「飲めませんって言ってるじゃないですか!!」
と、相手の胸ぐらでも掴めばいいじゃないか?
でもそんなことをしたら、せっかく楽しく飲もうと思って集まった、他の人たちを不快にさせてしまう…
われわれ「サービス精神派」はそんな風に思ってしまうのだ。
だから、目の前の愚かなヤツのためでなく、その他の大多数の、僕が好きなみんなの平和を守るために、無理して下戸は飲んでいるのだ。
愛する仲間たちの、楽しい飲み会を、愚かな飲酒強要族から守るため、人身御供となっているのだった。
そして、最後はゴミ袋の上に放置される、悲しき宿命をも受け入れていたのだ。
そして、朝日とともに、ゲロまみれのゴミ袋の中で、下戸の酔いが覚めると…
下戸はよろよろと立ち上がり、汚れた街へと消えていくのだ。
浴びるほど飲んだ飲酒強要族と同じ料金をふんだくられて薄くなった、財布とともに…